昨日の餃子パーティーの写真です。

絶品感動物の焼き餃子。

夏の風物詩 スイカ



本日は休日出勤。
茨城水戸にて、あるマーケティング関連の総会に出席。
水戸駅はとても都会でした。駅前に水戸黄門様の銅像もありました。
助さん角さんもいました。

水戸黄門の諸国放浪紀は大変有名だが、あれは完ぺきにフィクションです。
当の本人はこんなだったようです。定かではありませんが。

○不良のお坊ちゃま

 黄門様こと光圀は家康の末子である頼房の三男として寛永5(1628)年に水戸で生まれました。水戸駅から200メートルほど北東に歩いた場所が生誕の地であるとして、現在は「黄門神社」が建っています。寛文元(1661)年に第2代藩主となり、元禄3(1690)年、63歳で隠居しました。

 藩主としての在任は30年。名君ぶりを伝える逸話や事跡が少なくない。ただし、名君とされる人物は儒教から抜け出てきたような謹厳実直な、堅い人物なのですが、光圀はちがいます。二十歳前後のころは当時流行の「かぶき者」のかっこうをし、ビロード襟の小袖を着て、脇差を斜めざしにして、吉原などで遊んでいた。試し切りと称して乞食を斬ったり、町相撲に飛び入りして投げ飛ばされたら、怒って刀を抜いて勝った相手を追い回したこともあった。

 親である頼房が嘆くような不良のお坊ちゃまだった。藩主となってからも、吉原遊びや、芸者を乗せての舟遊びをたびたびしたし、三味線を弾いては浄瑠璃を唄っていた。親友である肥前小城藩主の鍋島元武への書簡が残っていて、吉原で遊んで遊女とキスをしただの、二日酔いで気分が悪く、起きられなかっただのと書いてます。
 ですから、頭の固い儒学者などは、「何が名君だ。女色や酒色に溺れた偽善者じゃないか」と、当時でも反発する声がありましたが、庶民はそういう光圀の人間らしさに親近感を感じたようです。

○人間味があるから慕われた

 水戸藩の藩主は「副将軍」などと言いますが、副将軍というポストはありません。将軍家に跡継ぎがないとき、御三家の尾張紀伊は後継者候補を出せるが、水戸藩は出せないきまりになっていた。領地も26万石(のちに35万石)と、尾張紀伊よりも少ない。
 頼房が末子であるので、一段、下げられた。その代わりに参勤交代を免除され、将軍の相談役として、江戸にずっと滞在していてもよろしいことになった。
 水戸藩藩士らが尾張藩紀伊藩に対して口惜しいので、「うちの殿様は副将軍なのだ」と言い出したらしい。

 助さん格さんをともなって諸国漫遊という物語は、光圀が隠居してからの話です。隠居すると同時に、朝廷から「中納言」という官位を受けた。中国唐の時代に、「中納言」は「黄門」と呼ばれたから、中納言に進んだ人は皆、黄門なのですが、特に光圀だけが「黄門様」と慕われた。たんに名君だというばかりか、遊び好きで人間味がある、庶民的でもあれば、幕閣や将軍に遠慮なく苦言を呈する。そういうことで、藩主時代からたいそうな人気があった。


話題をガラッとかえて、今週末のサーフィン情報。

たぶん関東沿岸波あがります。
さらに、この映画がついに日本上陸します。

カリフォルニアの友人サーファーが言っていましたが、大変素晴らしいらしいのでぜひ観て見てください。

6/21渋谷シネクイントにて公開スタート
7月〜8月は大阪、愛知、福岡、宮城、愛媛、熊本、沖縄

カリフォルニアは本当に最高です。
なんとかまた住みたいものです。